オリジナル・ミュージカル
“OUT OF THE BLUE” ― この物語の背景

 それはある古い第二次大戦末期のドキュメンタリーフィルムの音楽を担当していたときのことであった。舞台は昭和20年、場所は終戦直前の長崎市近郊にある捕虜収容所である。この収容所、正確には福岡捕虜収容所第14分所といい、長崎原爆投下の爆心地から1.7キロの幸町というところにあった。フィルムには西洋人らしき捕虜が軍事工場で働いているところや収容所の中の様子も映し出されていた。ビデオを何回も見ながらふと頭をよぎったのは「この連合軍の捕虜達は果たしてどうしてしまったのか」という疑問である。彼らはイギリス人、アメリカ人、オーストラリア人、オランダ人らの連合国の捕虜であり一時は5百人近くが収容されていたようである。
 8月9日午前11時02分、原爆は長崎市上空で炸裂した。死者73,884人、このうち連合軍の捕虜が何人死亡したかの正確な資料は残されていない。また生き残った捕虜がどのようにして終戦を迎え母国に帰国したかも限られた資料しか残されてはいない。
 この俘虜収容所第14分所の主計官をしていて生き残った田島治太夫さんが残した証言がある。「捕虜収容所というのは戦場の箱庭のようなものである。いつも敵と向かい合っている。そんな各国の人種が世界で初めて共に原爆の洗礼をうけた。原爆は決して日本人だけの問題ではない。」

 人種には関係なく同じ人間同士が長崎で被爆した。その一週間後に戦争は終わり、片方は敗者として戦場に残り、片方は勝者として帰国して行った。長崎に残った者はその後被爆者として悲惨な歴史の承認として生きていった。しかし英雄としてイギリスやオランダに帰国したであろう彼らのその後は?彼らが被爆したという事実をどれだけの人が知りえたか。また原爆症などという病名さえない時代にどれだけの生存者がその後、人知れず白血病や癌で死んでいったのか。彼らは被爆者たして認定されたのか。彼らの戦後とはどういうものだったのか…。いつしか私の頭の中をこれらの疑問が渦を巻いていた。

 福岡14捕虜収容所は我々が思うほど厳重な収容所ではなかったようだ。もちろん島国で脱走してもそう遠くへ行けるわけでもなく、意外に捕虜も自由があったみたいだ。勿論、造船所などへの労働の際も収容所から赴くわけだし、時にはカトリック教徒の捕虜は浦上天主堂のミサに行くことを許されたこともあるみたいである。そのような資料も残っており、中には捕虜の一人が地元の若い女性に出した差し入れに対するお礼の手紙も残っている。また看守と収容者のやり取りや行動も日誌や手紙からもうかがい知れる。運命とはいえ、長崎の地で市民と捕虜、彼らがそれぞれ日常の営みを送っている中、原爆は炸裂したのである。
 私はこれらの事実をつなぎ合わせてゆくうちに壮大な物語にできないものかと思い始めた。
 そのころ仕事の拠点としていたロンドンで台本の第一稿が完成したのが1993年の秋頃であった。
 執筆者は新進気鋭のポール・サンド、脚色はベテラン演出家、デビット・ギルモアである。
 この物語は壮大なラブストーリーである。人種を越えた男と女の、立場も考え方も違う兄弟、敵味方になり戦った男同士の友情、そして何よりも運命のいたずらで生き別れになった父と娘のラブストーリーである。そして皆1945年8月9日の運命の日を迎えるのである。

 語り部としてDr.アキヅキという役柄を設定した。Dr.アキヅキとは実在の人物でご本人も長崎で被爆され、その後原爆症の権威として世界中を旅された秋月修一郎氏のことである。Dr.アキヅキを中心に時代は現代と1945年をタイムルリップしながら、また舞台もアメリカ中西部と長崎を飛び交いながら米軍捕虜として長崎で被爆したジョン・マーシャルの戦後を描き、その妻ヒデコ、娘のハナとの愛の物語を展開してゆく。そしてすべての人間の運命を狂わした8月9日の長崎。
 本作品は原爆投下という人類最大の悲劇を背景に、その中で生き抜いて苦しみぬいた人間同士が繰り広げる友情、家族愛、そして何よりも人間愛を歌い上げたミュージカル・オペラである。
 戦後60年の時が過ぎたが、次の世代に我々が絶対に語り続けてゆかなければならないテーマである。

 初演は1994年11月、ロンドンのシャッフルベリー劇場で行われた。